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班 彪 はん・ひょう [は]

3~54
字(あざな)「叔皮」。若いときから博学で知られ、王莽の新(8~23)末に群雄が割拠した混乱に際して漢王朝を礼賛する『王命論』を著し、甘粛に自立して上将軍を号した隗囂が「天下は誰の手に収まるか」と問うたとき「劉氏に定まる」と論じて憚らなかった。これが同郷の大将軍竇融を通じて劉秀(光武帝)の耳に達し建武初年に司徒掾に起用された。 彪の先祖は楚の国(?~前223)の貴族だったが、秦の始皇帝に滅ぼされてのち扶風安陵(現陜西省)の楼煩というところで牛や羊を養い財を成した。漢第十代成帝のとき、その娘が後宮に入り婕妤(後宮で皇后に次ぐ)と称される高位にのぼった。班氏は帝室の外戚となった。
 班家の兄弟はたちまち出世し、長男の伯は定襄郡(現山西省)の太守、次男の斿は諌大夫(政策審議官)、末弟の穉は西河属国都尉となった。このうち博学で知られた斿は、帝のおぼえめでたく宮中秘蔵の書籍を校訂する役目を仰せつかった。だけでなく、その副本を下賜され、これが甥の彪に伝えられた。
 彪は叔父から伝承した宮中秘書を精読し、司馬遷の『史記』を書き足すべく『史記後伝』65篇を著述した。
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