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鳩山一郎 はとやま・いちろう [は]

1883~1955
東京都に生まれ、1907年に東京帝国大学法学部を卒業し弁護士から衆院議員となった。第2次大戦前に政友会幹事長、田中義一内閣で書記官長、犬養内閣、斉藤内閣で文相を務めた。戦後、公職追放となったが1952年に政界復帰を果たし、三木武吉とともに日本民主党を結成して1954年12月に首相となった。
タグ:卷之二鶏子
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薄靡 [は]

たなびく
『日本書紀』巻第一「神代上」第一段。夜明け間際、山の端にかかる薄雲が曙光を受けてかすかに茜色に染まるさま。
タグ:卷之三薄靡
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林芙美子 はやし・ふみこ [は]

本名・フミコ
1903~1951
明晰な頭脳をもって尾道高女を卒業した彼女は、貧困の中で創作に打ち込み、ついに書き上げた小説『放浪記』がベストセラーとなった。
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ハリマン エドワード・ヘンリー・ハリマン [は]

Edward Henry Harriman
1848~1909
アメリカ合衆国で「鉄道王」と称された。
ワイオミング州に産出する石炭を輸送するためユニオン・パシフィック鉄道を建設し、これがきっかけとなって軍および連邦政府に接近した。のちカリフォルニア州で採れる野菜や果物を冷蔵して東海岸に輸送する方法を編み出し、莫大な財を成した。ハリマンは投資銀行ブラウン・ブラザーズ・ハリマンを設立したのち国務長官に抜擢され、共和党政権を支えることになる。

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半舷上陸 はんげんじょうりく [は]

船が港に着いたとき、乗組員を左舷と右舷に分けて半分ずつ上陸させることをいう。そうすることで常に船内に最低必要な乗組員が留まることができる。のちこれが委員会や議会などに適用され、参議院のように半数ごとを改選する制度が生まれた。
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范 曄 はん・よう [は]

398~445
晋の豫章郡(江西省)太守・范寧の孫、范泰の第4子として生まれ、宋朝で尚書吏部郎(人事担当官)となった。元嘉元年(424)宣城郡太守となり、赴任中に『後漢書』を著したとされる。のち中央政界に復帰して政府の機密に携わったが、劉義康を擁立した謀反に加わったとして公開処刑された。
范曄は、自身の作を「天下の奇作」と評しているが、実態は『後漢紀』『東観漢記』『続漢書』『後漢南記』を襲った。ことに班固が勅命で著わした後漢光武帝紀、華嶠の筆になる『後漢書』を剽窃し、しかも晋の司馬彪が残した八志三十巻を付した。そのことが、後世の史家から厳しく咎められている。

班 固 はん・こ [は]

32~92
『漢書』の編者。
幼名「孟堅」
後漢第二代明帝の永平六年(西暦63)ごろから父・彪が著した『史記後伝』65篇に筆を加え始めたが、外部に知られるところとなり、「国史を私している」と訴えられ、獄に入った。この危機を聞きつけて、実弟で西域を探検する功を立てた超が弁護に立ち、権門の竇氏を動かして兄を救い出した。帝はその作が優れているので、反対に固を蘭台令史(宮中秘書管理官)に取り立て、勅命で編纂の続行を命じた。
 「漢書」が完成したのは後漢第三代章帝の建初年間(78~83)である。初代高祖から平帝にいたる前漢12代213年間の出来事、人物、社会・風俗、文化、地誌などを総覧した大著であるために、上梓するだけで5年を要した。和帝の永元四年(92)、外戚として権力をほしいままにした竇一族が宦官鄭衆の讒言にあって誅されると、大将軍・竇憲の業績を称える碑文を書いたという理由で班固は下獄し、獄中で死んだ。
 前漢の高祖から武帝の元封年間(前110~105)まで、班固は『史記』の記述をそのまま襲った。以後の記述は賈逵、劉歆の著作を援用し、かつ班彪の『史記後伝』にも依拠している。表と天文志は班昭と馬融が補った。班固自身の作になるのは古今人表のみでしかない。ゆえに、のちの史学者から、剽窃ではないか、とする批判がある。


班 昭 はん・しょう [は]

45~117
字「恵班」(一説に「姫」とも)。
中国史上、最初の女性学者、女流小説家。
曹寿(字「世叔」)に嫁ぎ、数人の子女を生んだ。兄・班固が獄中で死んだために「漢書」は散逸の憂き目を見たが、曹家に嫁いでいた妹の昭の許に草稿が残っていた。和帝はのちに班固を獄死させたことを惜しみ、永元四年(92)、班昭すなわち曹大家を宮中に招き、馬融と共同で再び取りまとめさせた。また鄧太后の信任を受けて宮中で女性に講学を行った。後漢全期を通じ傑出した女性学者とされる。

班 彪 はん・ひょう [は]

3~54
字(あざな)「叔皮」。若いときから博学で知られ、王莽の新(8~23)末に群雄が割拠した混乱に際して漢王朝を礼賛する『王命論』を著し、甘粛に自立して上将軍を号した隗囂が「天下は誰の手に収まるか」と問うたとき「劉氏に定まる」と論じて憚らなかった。これが同郷の大将軍竇融を通じて劉秀(光武帝)の耳に達し建武初年に司徒掾に起用された。

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