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水品 浩 みずしな・こう [み]

第二次大戦前、日本ワットソン統計会計機械の第二代社長に就任したが対米開戦と同時に逮捕され、釈放ののち三重県伊勢にあった神戸製鋼の工場で計算機の整備や修理を命じられた。第二次大戦後、日本IBMの第2代社長となった。1895(明治二十八)に神奈川県の横須賀に生まれた。父・貞四郎は横須賀鎮守府の会計書記を務めていた。水品は父のあとを継いで海軍を志したが、極度の近視であったため海軍兵学校をあきらめざるを得なかった。旧制中学卒業とともに、貿易に従事することを望んで森村商事に職を求めた。ちなみに「浩」は〔こう〕と読むのが正しい。
 入社して6年目、森村商事のアメリカの現地法人であるモリムラ・ブラザーズ・カンパニーに駐在員として派遣された。森村開作は水品が勤勉であるばかりか、ニューヨークでも夜学に通って英語を学ぶなど向学心に富み、かつ優秀な頭脳の持ち主であることを理解して、破格の人事をもって処遇した。このとき水品は、渡航の船が2等船室であることを知って、森村開作から500円の大金を前借りしている。
 「はじめから2等船室では、アメリカでの仕事がおぼつかぬではありませんか」
 というのが理由だった。たかだか25歳の青年が抱く大志を可として、500円という大金を拠出した七代目も、たしかに人物であった。
 水品は本社の要請を受けて、日本陶器のためにアメリカにおけるパンチカード型統計会計機械装置について事前調査を行った。その結果、CTR社のホレリス式に魅力を覚えていた。パワーズ式も有力な候補だったが、すでに三井物産がパワーズ社と東洋総代理店契約を結んでいたこと、ホレリス式が電気式であることなどが理由だった。
 また水品はフレデリック・テーラーが提唱した科学的経営管理法「テーラー・システム」の解説書『モダン・ビジネス』全24巻(ハミルトン・インスティチュート社刊)を熟読していた。彼はそれを通じてビジネス英語を学ぶとともに、計数的な分析と機械化による企業経営の合理化手法を理解していった。
 「どうせ英語を学ぶなら、電話で喧嘩ができるほどになりたい」
 と希望した水品は、アメリカ人の家に下宿し、夜学に通って経営学や会計学などを習得している。大学の夢を捨ててもなお夜学に通って大成したフレデリック・テーラーに共感するところがあったのであろう。同書は水品が帰国した際に大切に持ち帰り、現在も水品家に残っている。
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