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咸臨丸 かんりんまる [か]

19世紀中期の木造機帆(蒸気機関と帆を併用)船。日本の艦船として初めて太平洋を横断した。
排水量は600トン、長さ約49メートル、幅約7メートル、機関の馬力は100馬力だった。32ポンド砲12門を装備し、平均速力は毎時6ノット(約11キロメートル)とされる。安政四年(1857)オランダのカンデルク社で建造され「ヤーパン」号と命名された。日本の徳川幕府からの注文だったためである。カンデルク社は、オランダ海軍戦艦「バリー」の同型艦として「ヤーパン」を建造し、1857年9月に長崎に回航ののち日本名「咸臨」が定まった。
太平洋往復の快挙ののち、慶応四年(1867)の8月19日、咸臨は榎本武揚率いる幕府艦隊の輸送船として江戸湾を脱出した。房総沖で嵐に遭い、同航の蟠竜丸とともに漂流して清水港へ入った。蟠竜丸は修復して出港したが、咸臨は嵐でマストを折ったため航行不能の状態だった。
 9月18日、維新政府の軍艦「富士山丸」「武蔵丸」「飛竜丸」が咸臨を攻撃した。咸臨丸は修理のため武器を陸揚げしていた。これがために戦うことができず、白旗を上げて降伏の意志を示したが、官軍はこれを無視して多くの乗員を殺害した。その犠牲者の遺体を手厚く葬ったのは「清水の次郎長」の異名で知られる任侠・山本長五郎だった。
 咸臨丸は維新政府で大蔵省所管となり、1869年(明治二)に回漕業・木村萬平に譲渡され、しばらく北海道の物産輸送に活躍したが、1871年9月19日、小樽に向かう途中で座礁し、翌20日破砕した。

 〈安政訪米使節団の余談〉
 安政六年、幕府は通商条約批准使節をアメリカへ派遣することにした。当初の計画では、日本の使節団はアメリカ東洋艦隊の軍艦「ポーハタン」号に乗船することになっていた。ところが幕府内で異論が出た。まるで幕府の使節団を人質に取られるようなものではないか。「幕府の軍艦を護衛に付けるべきである」という議論となり、まず幕府軍艦「観光」丸が候補にあがった。しかし「観光」は老朽化が進んでいた。このため、「任に耐えず」と判断され、次いで佐賀鍋島藩保有の練習船「長陽」が候補にのぼった。しかし「長陽」を長崎から回航するには時間がかかり過ぎるということで断念された。咸臨に白羽の矢が立ったのは、たまたま江戸湾にあった、という理由に過ぎない。
 乗組員は観光で約4年間にわたる厳しい訓練に耐えた熟練ぞろいだったが、咸臨は本来、近海で使用する浅吃水型軍艦であって、外洋航海に向いていなかった。アメリカの士官は繰り返し、無謀である、と忠告したが、幕府(というより勝麟太郎)は聞かなかった。もっと乱暴だったのは日本使節団で、「幕府の船が随行するのなら、われらはそちらで行く」と言い出した。あまりに無茶な計画にアメリカ東洋艦隊は卒倒しかけたが、ポーハタンが着かず離れず同道し、正使の外国奉行新見正興らがアメリカの軍艦で行くことを条件にしぶしぶ承知した。ところが当のポーハタンの機関が故障してハワイで足止めを食った。ためにハワイ―サンフランシスコ間は咸臨の単独行となった。

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