千葉県野田の醤油 [ち]
千葉県野田で醤油が作られるようになったのは、古く戦国後期の永禄年間(1558―1569)にさかのぼる。
伝承によると「飯田市郎兵衛」の先祖が甲斐武田氏に豆油醤油を納め、「川中島御用溜醤油」と称したという。確実な記録では寛文元年(1661)に「高梨兵左衛門」という人が醤油作りを始め、翌年に「茂木七左衛門が味噌醸造を始めた」とある。それまで醤油は菱垣廻船や樽回船で関西から江戸に運ばれていたが、野田の醤油の生産量が高まるのにつれてそれに取って代わった。
高梨兵左衛門と茂木佐平治の両家は明治に入って「野田醤油醸造組合」を結成し、併せて「野田商誘銀行」や「野田人車鉄道」「野田病院」などを設立して地域の振興に努めている。この間、同じ千葉県の銚子でも醤油作りが始まり競争が激化した。そこで野田を本拠とする高梨系と茂木系の醸造元は1917年(大正六)、大合同して「野田醤油株式会社」を設立した。このとき社長に就任したのが茂木七郎右衛門である。また200以上もあった商標のうち、高梨家の「甲子(きのえね)」と茂木家の「亀甲萬」が統一商標となり、それがこんにち広く知られる「キッコーマン」となっている。
伝承によると「飯田市郎兵衛」の先祖が甲斐武田氏に豆油醤油を納め、「川中島御用溜醤油」と称したという。確実な記録では寛文元年(1661)に「高梨兵左衛門」という人が醤油作りを始め、翌年に「茂木七左衛門が味噌醸造を始めた」とある。それまで醤油は菱垣廻船や樽回船で関西から江戸に運ばれていたが、野田の醤油の生産量が高まるのにつれてそれに取って代わった。
高梨兵左衛門と茂木佐平治の両家は明治に入って「野田醤油醸造組合」を結成し、併せて「野田商誘銀行」や「野田人車鉄道」「野田病院」などを設立して地域の振興に努めている。この間、同じ千葉県の銚子でも醤油作りが始まり競争が激化した。そこで野田を本拠とする高梨系と茂木系の醸造元は1917年(大正六)、大合同して「野田醤油株式会社」を設立した。このとき社長に就任したのが茂木七郎右衛門である。また200以上もあった商標のうち、高梨家の「甲子(きのえね)」と茂木家の「亀甲萬」が統一商標となり、それがこんにち広く知られる「キッコーマン」となっている。
2009-11-23 13:27
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