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日比谷焼打ち事件  [ひ]

ポーツマス条約が締結されたとき、日本の国内で講和反対の声が上がった。東京の日比谷で講和反対国民大会が開かれ、集まった民衆が暴徒化して新聞社や交番を襲った。史上「日比谷焼打ち事件」と名付けられる。
9月6日から11月29日まで2か月半にわたって東京市内に戒厳令が敷かれたというから、なまじの反対運動ではなかった。東京市内の交番の7割が焼打ちや破壊にあい、死者17人、負傷約2000人を出した。同様の事件が横浜や神戸でも起こった。
この暴動には明確な指導者がいなかった。
政府は戦争の詳細な実情を秘匿し、勝利の部分だけを強調する報道しかさせなかった。民衆が「勝った、勝った」と浮かれ騒ぎ、提灯をかざして祝勝会を開いていたとき、実は旅順要塞に取り付いた乃木希典は死屍累々の苦戦を強いられていたのである。
ともあれそのようなわけで、民衆は大勝利を信じていた。8万人に及ぶ戦死者、44万人の戦傷病者を出し、戦費を贖うために米を節約し、外国から7億円もの借金をして勝ち取った勝利であれば、ロシアから賠償金を取って当然ではないか――という、素朴な怒りが爆発した。
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