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平塚らいてう ひらつか・らいちょう [ひ]

本名・明(はる)
1886年(明治十九)東京に生まれた。父定次郎は会計監査院の平凡な官吏であった。1906年(明治三十九)日本女子大を卒業したが、併せて津田英学塾に通い、国文学、哲学、宗教、英語、英文学になみなみならぬ才能を示した。5年後の1911年9月、日本女子大の同窓生4人と同人文芸誌『青踏』を創刊した。 その創刊の辞に彼女は 「元始女性は太陽であった」 と書いた。

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日比谷焼打ち事件  [ひ]

ポーツマス条約が締結されたとき、日本の国内で講和反対の声が上がった。東京の日比谷で講和反対国民大会が開かれ、集まった民衆が暴徒化して新聞社や交番を襲った。史上「日比谷焼打ち事件」と名付けられる。
9月6日から11月29日まで2か月半にわたって東京市内に戒厳令が敷かれたというから、なまじの反対運動ではなかった。東京市内の交番の7割が焼打ちや破壊にあい、死者17人、負傷約2000人を出した。同様の事件が横浜や神戸でも起こった。
この暴動には明確な指導者がいなかった。
政府は戦争の詳細な実情を秘匿し、勝利の部分だけを強調する報道しかさせなかった。民衆が「勝った、勝った」と浮かれ騒ぎ、提灯をかざして祝勝会を開いていたとき、実は旅順要塞に取り付いた乃木希典は死屍累々の苦戦を強いられていたのである。
ともあれそのようなわけで、民衆は大勝利を信じていた。8万人に及ぶ戦死者、44万人の戦傷病者を出し、戦費を贖うために米を節約し、外国から7億円もの借金をして勝ち取った勝利であれば、ロシアから賠償金を取って当然ではないか――という、素朴な怒りが爆発した。
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光堂の句 [ひ]

芭蕉と曾良が平泉を訪れたとき、金色堂は覆堂の内にあって、『奥の細道』平泉条にも「四面に囲て、甍を覆て風雨を凌」と書き残している。このことからも「降りのこしてや……」の句が心象であることが分かる。
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光堂 [ひ]

中尊寺にある。
「金色堂」の名で知られる。
阿弥陀堂として建てられ、建物全体に金箔が貼り込められていたことからこの異称がついた。阿弥陀信仰では、末法の世を救済する阿弥陀如来仏は黄金に輝く西方浄土にいて、その出来のときには眩い光が満ちるとされた。「金閣」の異称で知られる鹿苑寺が京都の西に位置するのも西方浄土の思想が背景にある。藤原三代の遺体をミイラ化して須彌壇の下に安置するという伝え通り、1950年に行われた学術調査で3体のミイラ化した遺体と漆塗りの桶に入った首級が発見された。医学的調査によって間違いなく藤原三代の遺体と最後の当主泰衡の首級であることが判明した。
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平賀源内 ひらが・げんない [ひ]

1727~1779
本草学の大家としてだけでなく、エレキテル(摩擦起電器)の発明家として知られている。日本初の物産展を開いたり、寒暖計を発明したのも源内だった。田沼意次に仕え家勢を高めたが、意次の失脚後は不遇をかこった。安永七(1778)年、町民2名を殺傷して捕縛され、翌年、獄中で没した。
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