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平塚らいてう ひらつか・らいちょう [ひ]

本名・明(はる)
1886年(明治十九)東京に生まれた。父定次郎は会計監査院の平凡な官吏であった。1906年(明治三十九)日本女子大を卒業したが、併せて津田英学塾に通い、国文学、哲学、宗教、英語、英文学になみなみならぬ才能を示した。5年後の1911年9月、日本女子大の同窓生4人と同人文芸誌『青踏』を創刊した。 その創刊の辞に彼女は 「元始女性は太陽であった」 と書いた。 女子大を卒業した年の厳冬、東京帝大卒の小説家・森田草平(本名「米松」、1881~1949)と駆け落ちし、那須塩原の尾頭峠に逃げた。当時、森田はすでに「夏目漱石の弟子」として知られていた。
 ――新進気鋭の小説家が、女子大を出たばかりの良家の子女と心中に走った。
 マスコミにとってはこのうえない好餌だった。平塚らいてうを語るとき、この「塩原事件」が必ず引き合いに出されるのは、のちの森田に対するらいてうの態度によっている。
 森田は1909年、逃避行の様子を小説『煤煙』として発表した。
 これが好評となって、長編『自叙伝』をものし、戯曲『袈裟御前』などで作家の座を確定した。
 これに対して彼女は臆することなく所信を述べ、自分との恋愛事情を小説と称して暴露した行為を痛烈に批判した。その批判が彼女の名声を高めた、ともいえる。
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