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蝉論争 [せ]

 松尾芭蕉が山形県の山寺で詠んだ「しずけさや 岩にしみいる 蝉の声」の蝉の種類をめぐって、齊藤茂吉と小宮豊隆の間で昭和初期に起こされた論争。
  「閑けさや」の言葉から、少なからず一般が「一匹の蜩」であるかの印象を持っていた。
 なるほど、林の奥から響き渡るヒキヒキの声には趣がある。朝晩にそろそろ秋を感じる風が吹くころという印象だが、生態学的には矛盾しない。また、俳諧に静寂を求める日本人の文化心理として分からないでもない。
 ところが、そのところに齊藤茂吉が「これは油蝉であるに違いない」と論じて一石を投じた。
 対して東北帝国大学の教授で夏目漱石の弟子だった小宮豊隆が、「それもまた否である。ニーニー蝉である」と反論した。油蝉のほうがいかにも暑い盛りのイメージだが、山形で生まれ育ち、歌人として芭蕉に特別の思いを寄せていた茂吉は「油蝉」にこだわり、また別の方面から「春蝉」説が示され、旧来の「蜩」説が再燃するなど、〔蝉〕の一語をめぐって句界が騒然とした。ややあって小宮が、「新暦7月上旬に、山形では油蝉は出現しない。もっぱらニーニー蝉である」と、科学的根拠をもって論証したため、この論争は決着を見た。
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船中八策・新政府綱領八策 [せ]

坂本龍馬が後藤象二郎を通じて土佐藩主・山内容堂に提出した建白書。
薩長連合を成立せしめ、万国公法に基づいてイギリスと交渉して「いろは丸事件」を解決した坂本龍馬は、いよいよ徳川幕府に幕引きすることを思案した。慶応三年(1868)6月9日、後藤象二郎とともに土佐藩船「夕顔」で長崎から兵庫へ向かった彼は、船内の一室にこもって建策の原案を作り、同乗の後藤に示した。龍馬の手は金釘文字の悪筆だったため、側にいた海援隊の長岡謙吉が書き写した。
一行は6月12日兵庫に上陸し、14日後藤象二郎が京都に入って藩論としてまとめ翌15日に成案を得た。土佐藩・山内容堂が徳川慶喜に建白書として提出したのは10月3日だった。後に明治新政府の大方針を示す「五箇条の御誓文」の原型となり、新政府樹立後の国政の指標となった。のちの研究で横井小楠の「国是七条」の思想を色濃く反映していると指摘される。
どこまでが龍馬の独創になるかという議論は措くとして、このとき彼が想定したのは土佐藩主・山内容堂を首班とする上下議会制であって、そう遠くない将来にアメリカ合衆国大統領制に近い体制を指向したものだった。ところがその意味を、明治の元勲たちは理解できなかった。

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