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日本国の紀元 [に]

天皇家の初代・神武天皇が即位したのは、『書紀』によると「辛酉年春正月庚辰朔」すなわち1月1日であって、2月11日ではない。明治初年、政府が陰暦からグレオリオ暦に移行した際、水戸徳川家で『大日本史』を編集していた藤田一正という学者が「陰暦1月1日は太陽暦の2月11日に相当する」としたのが始まり。神武天皇の実在が否定されている現在、その即位を紀元前660年に求めること自体が意味をなさない。その根拠となっている『書紀』の記述の編者たちは、首皇子立太子の和銅七年(714)、7年後の「辛酉」を無事に切り抜けることが政治的な課題となった。すなわち中国の懺惟説では、「辛酉」の年に、地上を支配する皇帝に対して天帝の命(天命)が下ることになっていた。それまでの治績が非と裁定されば別の王権に地上を支配する命が下る。そこで『書紀』編者たちは、一巡前の辛酉年=661年に革命が起きてしまっていれば、天命は覆らない、と考えた。『書紀』は斉明天皇七年(661)紀に天命が革まったことを示す兆しを挿入し、そこから21元(一元60年)+60年=1,320年さかのぼった紀元前660年に神武天皇即位を設定した。神武即位の年代設定は、『日本書記』にとって現実の政治的課題への対応という意味合いが強かった。
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日米修好通商条約  [に]

安政五年(1858)6月19日、神奈川沖停泊のアメリカ東インド艦隊旗艦ボーハタン号艦上で調印された。
調印に臨んだのは幕府下田奉行井上清直、目付岩瀬忠震、駐下田アメリカ公使タウンゼント・ハリスだった。これを皮切りに幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスと同様の条約を結び(いわゆる安政五か国条約)、対して京都の朝廷はこれを不満として条約の破棄を幕府に命じ、かつ長州など勤皇反幕雄藩に外国船打払いの勅命を出した。このときから幕末維新の動乱が始まった。
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日本坂トンネル事故 [に]

1979年(昭和五十四)7月11日、東名高速道路下り線の「日本坂トンネル(全長2,045m)」の中で、トラックと乗用車が衝突した。後続車両7台が止まりきれずに玉突きでぶつかり、後にトラックの荷物が発火してトンネル内に煙が充満した。避難のため置き去りにした車両173台が次々に炎上し、7人が死亡、65時間も燃えつづけた。鎮火後、トンネル内の残骸を片付けるのに10日を要し、全面復旧するまで2か月間、上下片側一車線で仮開通した。物流の停滞など被害総額は約60億円に達した。
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日朝修好条約 [に]

1875年9月20日、朝鮮領海を侵犯した日本の軍艦「雲揚」が漢江河口の江華島砲台から射撃を受けた。大日本帝国はそれを口実に、「日朝修好条約」の締結を迫った。日本の艦船および朝鮮半島における日本の資産、日本人の生命財産は朝鮮国の法規適用外に置くとともに、日朝間の取引きには関税を課さないというものだった。
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日露講和条約 [に]

1905年の8月、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマスの米海軍工廠で結ばれた条約。
日露戦争の終結を確認するためのものだったが、大日本帝国は南樺太の領有と満州東支鉄道、大韓帝国保護権を獲得した。満州東支鉄道はやがて「南満州鉄道」いわゆる「満鉄」となり、日中戦争、第二次大戦における政治的・軍事的な戦略を担う。
日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテの間で調印が成され締結された。会議が開かれた地名を取って「ポーツマス条約」とも呼ばれる。仲介したのはアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトだった。
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『日本書紀』 [に]

元正天皇の養老四年(720)五月に舎人親王の名によって撰上された。総巻数は全三十巻、系図一巻で、わが国最古の官撰国史とされる。本来あるべき序文と系図1巻は散逸して現存していない。
編纂にかかわったのは数十人あるいは数百人で、その作業は前後十程度の区分で行われたことが分かっている。
現存のものはすべて後世の写本であって、「卜部兼方本」と呼ばれる神代紀二巻が弘安九年(1286)の奥書を持っていて最も古い。次いで永和元年(1375)の奥書を持つ熱田本十四巻、応永四年(1379)の奥書を持つ卜部兼右本二十八巻などが知られている。また、全三十巻を通しで備えるのは慶長年間の写筆と見られる内閣文庫十冊である。江戸期に市販された木版古活字刷本の多くは、慶長十五年(1610)起版に基づいている。
このほか数行、数十文字のみを残す断簡が伝えられ、それぞれに比較検討が行われている。研究者たちは膨大な古紙の中から10行237文字、あるいは3行59文字を残す断簡を見つけ出し、筆法、用紙、紙背、異字を検証する作業を積み重ねた。その結果、空海の詩文集『遍照発輝性霊集』の一部を背紙に持つ巻第十応神紀残巻が平安初期の写筆と断定され、現在、これが国宝に指定されている。
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